ラ・ラ・ランド

## 終わってしまった。この感情を、誰かと分かち合いたい

エンドロールが流れ、場内が明るくなっても、誰一人として席を立とうとしない。いや、立てないのだ。スクリーンに映し出された「The End」の文字は、まるで冗談のように白々しく、私たちの心はまだ、あのロサンゼルスの黄昏に囚われたまま。隣の席の見知らぬ誰かも、きっと同じ気持ちだろう。祝福と喪失感、多幸感とめまいのような切なさ。それらがごちゃ混ぜになった巨大な感情の渦に巻き込まれ、ただ、呆然とするしかない。

なんだこれは。

鑑賞前に抱いていたイメージは、どこまでも甘く、煌びやかなミュージカル・ラブストーリー。しかし、今、胸に突き刺さっているのは、そんな生易しいものではない。夢を追いかけることの残酷なまでの美しさと、人生の選択がもたらす取り返しのつかない痛み。それを、こんなにも鮮やかな色彩と、心躍る音楽で描き切ってしまうなんて。これは、あまりにも「でたらめ」だ。デイミアン・チャゼルという監督は、一体どれだけ意地悪で、そして、どれだけロマンチストなのだろうか。

この感情を、どう名付ければいい?
ただ一つ確かなのは、この映画は終わってからも、私たちの心の中で永遠に続いていくということ。このどうしようもない余韻の正体を、今すぐにでも誰かと語り合いたい。そう、あなたと。

## 振り返る — この旅の始まりはこうだった

思い出してみよう。この旅が、いかに希望に満ち溢れた光景から始まったのかを。
ロサンゼルスの高速道路。忌まわしい渋滞の列から、人々が次々と車を降り、歌い、踊り出す。太陽の光を全身に浴びながら、未来への希望を叫ぶ「Another Day of Sun」。ワンカットで撮影されたこのオープニングは、これから始まる物語が、最高にハッピーで、夢のような時間であることを高らかに宣言していた。そう、あの時は、疑いようもなく信じていたのだ。

ミアとセバスチャン。女優の卵と、頑固なジャズピアニスト。夢見る二人が出会い、恋に落ち、互いの夢を応援し合う。なんて王道なのだろう!なんて素敵なのだろう!私たちは、彼らの恋の行方を、まるで自分のことのように見守り、その輝かしい未来を確信していた。あのオープニングの太陽のように、彼らの前途は洋々だと。

しかし、鑑賞を終えた今、あのオープニングを振り返ると、全く違う景色が見えてくる。あの高揚感は、これから彼らを待ち受ける現実の厳しさを際立たせるための、あまりにも残酷な前フリではなかったのか?あの眩い太陽の光は、夢が叶う瞬間の輝きであると同時に、決して手に入らない「もしも」の人生を照らし出す、皮肉なスポットライトではなかったのか?

物語の始まりに感じた純粋なワクワク感。それが今、この胸を締め付ける切なさの源流となっていることに気づかされる。この感情のコントラストこそが、『ラ・ラ・ランド』という旅の、最初の罠だったのだ。

## 道中の絶景 — 心に刻まれた技術と演出

この旅の途中、私たちは息をのむような絶景に何度も出会った。それは、チャゼル監督と彼のチームが作り上げた、映画という魔法そのものだった。

まず、あのプールサイドのパーティ。オーディションに落ち続け、LAの喧騒に疲れ果てたミアが、気乗りしないまま参加する場面だ。カメラは、ミアの孤独な心情を映し出すかのように、彼女の周りを滑らかに漂う。原色のドレスをまとった人々が騒ぐ中、ミアだけがどこか浮いている。その疎外感を、ステディカムを用いた流麗なカメラワークが見事に捉えている。そして、彼女の耳に届く、どこか懐かしくも切ないピアノの音色。その音に導かれた先で、彼女はセバスチャンと再会する。この一連の流れは、単なる状況説明ではない。色彩、音楽、そしてカメラの動きそのものが、ミアの感情を語り、運命の再会を必然であるかのように演出しているのだ。

そして、グリフィス天文台でのダンスシーン!ああ、あれこそ「でたらめ」の極致だ!プラネタリウムでワルツを踊っていた二人が、ふわりと宙に舞い上がり、満天の星々の中で愛を確かめ合う。現実にはあり得ない。しかし、恋に落ちた瞬間の、あの世界中が自分たちのために輝いているかのような全能感、地面から足が浮いてしまうような高揚感を、これほど完璧に映像化したシーンが他にあるだろうか。VFXと照明、そして計算され尽くした振り付けが生み出したこの幻想的な空間は、二人の恋が頂点に達したことを示す、映画史に残る魔法の瞬間だ。この「嘘」を、私たちは心から信じた。いや、信じたかったのだ。

忘れてはならないのが、セバスチャンがハモサビーチの桟橋で、一人「City of Stars」を口ずさむシーン。陽が落ちる直前の、空が紫色に染まるマジックアワー。チャゼル監督が偏愛するこの時間帯の光が、セブの孤独と、まだ形にならない夢への憧憬を優しく包み込む。たった一人で歌われるこのメロディが、後にミアとのデュエットとなり、二人のテーマとなっていく。この美しい孤独のシーンがあるからこそ、後の二人のハーモニーがより一層、胸に響くのだ。技術的な評価という言葉では陳腐に聞こえる。これは、光と音で綴られた、一篇の詩なのだ。

## 旅の仲間たち — 共に歩んだキャラクターの記憶

この旅を、私たちは誰と共に歩んだのか。それは、ミアとセバスチャン。エマ・ストーンとライアン・ゴズリングが、その魂を注ぎ込んだ二人の夢追い人だ。

彼らは、単なる物語の登場人物ではない。オーディションに落ちては自己嫌悪に陥るミアの姿に、私たちは自分の挫折を重ねた。自分の信じる音楽を誰にも理解されず、生活のために妥協するセブの頑固さと不器用さに、私たちは自分のプライドと現実の狭間での葛藤を見た。彼らは、夢を追いかけたことがあるすべての人間の代弁者であり、共犯者だった。

エマ・ストーンの演技アプローチは、まさに圧巻の一言。特に、最後のオーディションで、彼女が自らの叔母の物語を歌い上げる「Audition (The Fools Who Dream)」のシーン。カメラは彼女の顔をただじっと捉え続ける。その瞳から溢れ出す、不安、希望、情熱、そして覚悟。小手先のテクニックではない、魂そのものが発する光がそこにはあった。あの数分間で、私たちはミアという女性の人生のすべてを目撃したのだ。

対するライアン・ゴズリング。彼は、セバスチャンというキャラクターが持つ、古き良きものへの憧憬と、現代におけるその居場所のなさを、その佇まい一つで表現してみせた。彼が弾くピアノの旋律は、決して超絶技巧ではない。しかし、その一音一音には、ジャズへの愛と、失われゆくものへの哀愁が確かに込められていた。彼がミアを見つめる眼差し、その中に宿る優しさと不器用な愛情に、私たちはどれだけ心を揺さぶられたことだろう。

彼らは共に歩み、愛し合い、そして、それぞれの夢のために、別の道を歩むことを選んだ。その選択は、あまりにも切なく、そして、あまりにもリアルだ。私たちは、この愛すべき旅の仲間との別れを、ただ静かに受け入れるしかなかった。

この余韻の正体を、もっと深く知りたくなったら——

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## 余韻の正体 — なぜこの物語は終わっても終わらないのか

なぜ、この物語はこれほどまでに私たちの心を掴んで離さないのか。その答えは、ラスト10分間に集約されている。あの、映画史に残る、あまりにも美しく、そして残酷な「もしも」のモンタージュ。これこそが、本作の「でたらめさ」の核心であり、この余韻の正体だ。

セバスチャンが経営するジャズクラブ「SEB’S」。そこに、偶然(あるいは必然か)夫と共に訪れる、大女優となったミア。セブは、客席にいるミアに気づき、そして弾き始める。二人のテーマ曲を。その瞬間、物語は現実の時間軸から解き放たれる。

もしも、あの夜、最初のキスがもっと情熱的だったら。
もしも、セブがミアの一人芝居を観に行けていたら。
もしも、彼がツアーに参加せず、ミアと共にパリへ行っていたら。

スクリーンに映し出されるのは、私たちが、そしておそらくミアとセブ自身が、心のどこかで望んでいた「もう一つの人生」。結婚し、子供が生まれ、幸せな家庭を築く二人の姿。それは、夢のように甘美で、完璧なハッピーエンドだ。しかし、それは現実ではない。音楽が終わると共に、私たちは再びジャズクラブの現実に引き戻される。この一連のシークエンスは、観客が抱いていた「こうなってほしかった」という願望を、一度完璧に見せておきながら、それを幻として突き放すという、悪魔的な構成なのだ。

これが、単に「夢を叶えた二人は結ばれなかった」というビターエンドの物語であれば、ここまでの余韻は残らなかっただろう。「夢か、愛か」という二者択一のテーマを提示しながら、本作は最後の最後で「夢も愛も(別の形で)手に入れた二人が、手に入れられなかった“もしも”の人生を想う」という、さらに複雑で高次元なテーマへと昇華させる。夢を叶えるためには、何かを諦めなければならない。しかし、その選択があったからこそ、今の自分がいる。この肯定と喪失が同時に存在する、人生そのものの矛盾。それを、たった10分の映像詩で描き切ってしまったのだ。

そして、最後の視線の交錯。店を出る間際、ミアはセブの方を振り返る。セブもまた、彼女を見つめている。時間にすれば、ほんの数秒。しかし、その視線には、万感の想いが込められている。後悔?いや、違う。感謝?それもあるだろう。祝福?きっとそうだ。それは、「あなたの夢が叶ってよかった」そして、「私の夢も叶ったよ」という、かつて誰よりも互いの夢を信じ合った共犯者同士の、無言の会話。ミアが最後に浮かべる、ほんのわずかな、しかし確かな微笑み。あれこそが、この物語の全てだ。彼らが選んだ道は、決して間違いではなかった。その事実が、切なさの中に、一筋の温かい光を投げかける。

だから、この物語は終わらない。どちらの人生が正解だったのか、という問いに答えはない。私たちは劇場を出た後も、ミアとセブの「もしも」の人生に想いを馳せ、そして自分自身の人生における無数の選択について、考えずにはいられないのだ。

## 二周目への招待 — 知ってから観るとすべてが変わる

この衝撃的な結末を知った上で、もう一度、冒頭の高速道路に戻ってみてほしい。すべての風景が、以前とは全く違って見えるはずだ。

例えば、二人が出会う数々のシーンに散りばめられた「すれ違い」のモチーフ。高速道路でのクラクション、パーティでの意図しないすれ違い。これらは当初、ロマンチックなラブストーリーのお約束に見える。しかし、結末を知ってから見返すと、それは彼らが最終的に別の道を歩むことになる運命の、巧妙な伏線であったことに気づかされる。

音楽にも注目だ。セブがミアと初めて出会うレストランでクビになるきっかけとなった、あの即興のピアノ曲。あの切ないメロディこそ、二人のテーマ「Mia & Sebastian’s Theme」の原型だ。あの瞬間に生まれ、物語を通じて様々な形に変奏され、そして最後のジャズクラブで、二人の全ての思い出を乗せて完成する。この音楽の旅路を追うだけでも、二周目の鑑賞は格別な体験となるだろう。

また、ミアが壁に貼っていたイングリッド・バーグマンのポスターや、セブが語る古き良きジャズへの憧憬。それらは、彼らが過去の偉大なものに憧れる「夢見る人々」であることを示している。しかし、物語の終盤、ミアは自らの言葉で物語を書き、セブは伝統的なジャズに現代的な要素を取り入れたクラブを開く。彼らは、ただの模倣者ではなく、過去を踏まえた上で、自分自身の未来を創造する存在へと成長していくのだ。この変化に気づいた時、彼らの選択がより深く理解できるはずだ。

一度目の鑑賞が感情の洪水に溺れる体験だとしたら、二周目は、その洪水の源流を探る知的な冒険となる。ぜひ、もう一度、彼らの旅に同行してみてほしい。

## 旅は終わらない — 次に出会うべき物語

このどうしようもない余韻から、まだ抜け出したくない。そんなあなたに、次に出会うべき二つの物語を紹介したい。

一つは、同じデイミアン・チャゼル監督の**『セッション』**だ。
『ラ・ラ・ランド』が夢の輝きと痛みをロマンチックに描いた光の物語だとすれば、『セッション』は夢に取り憑かれた人間の狂気と執念を描いた影の物語と言える。偉大なジャズドラマーを目指す青年と、彼を狂気的なレッスンで追い詰める鬼教師。そこには甘いラブストーリーの入る隙間など微塵もない。夢を追いかけるという行為が、いかに人間を非人間的な領域へと駆り立てるのか。その代償とは何か。『ラ・ラ・ランド』のビターな側面を、より鋭利な刃物で抉り出すようなこの作品は、あなたの心を再び鷲掴みにするだろう。

もう一つは、本作が多大なリスペクトを捧げた、ジャック・ドゥミ監督の**『シェルブールの雨傘』**だ。
1964年のフランス映画。全編のセリフが歌で構成されたミュージカルであり、その鮮やかな色彩感覚、そして愛し合いながらも運命によって引き裂かれる恋人たちの切ない物語は、『ラ・ラ・ランド』の紛れもない原点だ。特に、数年後に再会した二人が交わす会話のやるせなさは、本作のラストシーンと見事に共鳴する。このクラシックな傑作に触れることで、チャゼル監督が何を受け継ぎ、そして何を現代に蘇らせようとしたのか、その作家性をより深く理解することができるはずだ。

旅はまだ終わらない。一本の映画が、次の映画へと私たちを誘う。『ラ・ラ・ランド』が心に灯したこの小さな光を頼りに、私たちはこれからも、素晴らしい物語を探す旅を続けていくのだ。

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